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今年もシーズン到来・・・東洋思想と薬膳の見地からみた「花粉症」

この記事の執筆者

氣生薬局

漢方歴27年! 豊島区南大塚で漢方の氣生(きお)という薬局を経営。 私の家は医療一家です。私は三女として産まれ、父(他界)は日本赤十字乳児院の院長、母は薬剤師。長女は歯科医。次女は、眼科医(専門医) ... [続きを見る]

このシーズン、やはり花粉が気になる方は多いのではないでしょうか?

そもそも「花粉症」は、いつ頃から始まったのか。これまでの歴史を振り返りながら、東洋思想と薬膳の見地より解説していきたいと思います。

「花粉症」はいつ・どこからやってきた?

いまや国民病とも言われる「花粉症」という言葉が聞かれるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか。

日本で初めて「花粉症」と診断された患者が出たのは、戦後の1963年頃です。原因物質つまりアレルゲンは、キク科の植物「ブタクサ」の花粉ということでした。

しかし、どうやらこの「ブタクサ」という植物は、アメリカ進駐軍から日本に持ち込まれて繁殖したのちに花粉を飛散させることとなり、アレルゲンとなったようです。また、ブタクサに続き翌年頃からスギ花粉症が報告されました。

このように私たち日本人と花粉症との付き合いは、ほんの60年ほど前から始まったのですね。

アレルギー発症と食の時代背景

時代背景を考えてみると、これは自論ではありますが、花粉症と同じくアトピー性皮膚炎やほかのアレルギー症状も、この戦後という時代に急速に増えていったように感じます。

その原因として「戦後の学校給食」を焦点に考えざるを得ません。日本は食糧不足のためにララ財団(海外事業運営篤志団アメリカ協議会が、日本・朝鮮・沖縄の救援事業を行うためにアジア救援公認団体Licensed Agencies for Relief in Asiaを設置)からの脱脂粉乳の提供を受け、1947年に学校給食が始まりました。

その際の報告には、多くの児童が脱脂粉乳に含まれる乳糖によって下痢を起こしたとか。しかし一方で、この支援によって飢餓から救われたわけです。1958年、一部脱脂粉乳に代わり国産牛乳を提供し、そして1964年には1年を通じて国産牛乳が提供されることとなります。

さらに1950年には、アメリカからの小麦の寄贈によって8大都市の小学生に完全給食が実施されました。

ところが当時から、他国においては「輸入小麦には『ポストハーベスト』としてマラチオンやクロルピリホスメチルなどの有機リン系殺虫剤の成分が検出されている」と報告されています。

これらの食品に含まれる成分が、子どもたちのアレルギー性疾患増加の一因となっている可能性があるのです。

東洋思想と薬膳の見地

つまり、何が言えるのか?それは前述した「戦後の学校給食」の実態を例に挙げると、私が生業としている薬膳や漢方薬などの東洋思想に即していないということです。

薬膳については広義での解釈しかありませんが、薬膳の「膳」は食事を意味します。そして、古くから身土不二(しんどふじ)という言葉があります。この言葉の意味するところは「身と土二つにあらず」。要は「人間の身体と人間が暮らす土地は一体で、切っても切れない関係にある」ということです。

言い換えれば「その土地で育った季節・旬の食材や、その人の体調に合わせた漢方の生薬を組み合わせる料理が健康を作り出している」とも言えますが、それが戦後の給食からは実現していません。

給食の例に戻ると、昨今ではポストハーベストなく国産の小麦や米粉を使ったパンなども給食に出されるようになってきました。しかし、身体と体質を整えるためには、給食だけでなく家庭での食に対する見直しも必要です。

薬膳には「誤った食事は病を生んで、正しい食事で病は自ずと癒える」といった考え方が根底にあります。

戦後の高度成長期から欧米に倣い、食生活は豊かになりました。とはいえ、日本古来の自然環境である「大宇宙」と、「小宇宙」である身体の調和が崩れていると感じざるを得ません。そしてそれらが、花粉症という“国民病”を作り出しているのです。

薬膳からみた花粉症「鎮静食」

無論、普段の食事が身体を作っているので、花粉症に限らず食事の重要性については言うまでもありません。では薬膳の見地から、どのような食べ物が花粉症を鎮めてくれるのかといえば、五臓六腑でいう「肺」「腎」に入っていくような食材が良いと考えられます。

キノコ類・根菜(レンコンやゴボウ)・菌類(ヨーグルトや納豆)など、発酵商品や食物繊維の豊富な食材が良いでしょう。やはり、なんといってもバランスの取れた食事が一番です。

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